その後、江南で東晋が成立すると、仮の安集将軍に任じられ、次第に官位を上げていった。
王敦の乱が起きると、東晋の首都建康近郊の国境地帯にいた蘇峻は、反乱軍鎮圧で活躍して、朝廷からその功績を認められ、更に官位は上がっていった。最終的には使持節・冠軍将軍・歴陽内史・加散騎常侍に昇り、邵陵公に封ぜられ、食邑として一千八百戸が与えられている。
?亮の討伐を名目に挙兵した蘇峻は、翌
328年2月、
長江を渡って東晋の国都建康を包囲、火攻めによって陥落させた。?亮は逃亡し、まだ幼かった
成帝以下、当時建康にいた朝廷の関係者全員が捕らえられた。幼帝を擁して
驃騎将軍を称していた蘇峻は、配下の兵士たちに激しい掠奪を行わせたばかりか、朝廷の百官や、宮中に仕える宮女らの衣服を剥ぎ取って裸にし、官吏には苦役を強要し、王侯大臣であっても破れ筵や草で身を隠し、草もない者は地に座って土で身を覆い、裸を隠す有様だったとされる。