翌
619年、ついに楊?を廃して自ら皇帝に即位し、国号を
鄭とし、元号として
開明を建て、現在の
河南省北部を支配した。しかしその統治は過酷なものであり、多くの民衆が逃亡し、また少なくない将軍たちも
唐に帰順した。
620年7月、
李世民が中原に向かい進軍すると、王世充は夏政権を樹立し自立していた
竇建徳に救援を依頼した。しかし竇建徳が
虎牢にて
李世民に敗れると、王世充は唐朝に降伏した。接見した
李淵は王世充を平民とし、一族を巴蜀(現在の
四川省)に流刑にした。その移動途中の雍州の廨舍で、仇家である定州刺史
独孤修徳により殺害された。