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「水戸藩」||企業-master.com [05/28update]
水戸藩
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水戸藩
(みとはん)は、
常陸
にあって現在の
茨城県
中部・北部を治めた
藩
。藩庁は
水戸城
(
水戸市
)。藩主は
水戸徳川家
(
1609年
- )。
徳川御三家
の一つで、
石高
は35万石。
◆ 藩史
常陸は
戦国大名
佐竹氏
が
豊臣秀吉
によって支配をそのまま認められていたが、
関ヶ原の戦い
の際54万石の
佐竹義宣
は徳川方に加担しなかったため、
慶長
7年(
1602年
出羽
秋田(
久保田藩
21万石)に減転封された。佐竹氏の後、水戸には
佐倉
より
徳川家康
の五男
武田信吉
が入ったが(15万石)、翌年
1603年
に信吉が急死し、続いて家康の十男
徳川頼宣
が入る。
1609年
、頼宣の領地が家康のお膝元
駿府
に移され
駿府藩
が成立すると、頼宣のあとに同母弟の家康十一男
徳川頼房
が25万石で入った。頼房は28万石に加増を受け、のち
元禄時代
に検地を行って石高を35万石に改めたがこの改訂はかなり無理があったようである。
水戸藩主は御三家の中でも唯一
江戸
常勤を定められ、
将軍
を補佐する役目を受け持っていた。そのため、水戸藩主は常時二重生活を強いられたうえ、格式を優先して実態の伴わない石直し(表高改訂)を行ったため、
内高
が
表高
を恒常的に下回っていた。幕府に対する軍役は、表高を基礎に計算され、何事も35万石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなった。
頼房は事情により次男
光圀
に水戸藩を譲ったため、長男
松平頼重
は讃岐
高松藩
12万石を与えられた。光圀は学問を好み、
大日本史
の編纂を行い、水戸藩に
尊王
の気風を植え付けた。水戸藩で生まれた
水戸学
は
幕末
の
尊皇攘夷運動
に強い影響を与えた。
九代藩主
斉昭
は藩政の改革と幕政への参加を志したが、強い尊王攘夷傾向のため
幕府
に疎まれ隠居を余儀なくされた。また斉昭は、財政難の中で、新規召し抱えをおこなったため、藩財政は窮乏を極めた。なお15代将軍
徳川慶喜
は斉昭の子であるが、
御三卿
の一つである
一橋家
を継いでから将軍になったものである。
幕末には藩内の保守派(
諸生党
)と改革派(
天狗党
)の抗争から統制を失い、藩士による
桜田門外の変
、
天狗党の乱
、
弘道館戦争
を招いた。
水戸藩領は
廃藩置県
により水戸県を経て、茨城県に編入された。
◆ 歴代藩主
◇ 武田(徳川)家
親藩
- 15万石
◇ 徳川(紀州)家
▲上へ
/
▼下へ
親藩 - 20万石→25万石
◇ 徳川(水戸)家
親藩 - 35万石 ※
1636年
(寛永13年)7月以前は松平姓