明治3年
4月8日(
1870年5月8日)、大久保利通の推挙によって
大蔵大丞兼
民部大丞に任じられる。当時の民部大蔵省(
民部省・
大蔵省の統合体)は、
大隈重信・
伊藤博文ら急進的な
中央集権論者が要職を占め、大久保と度々対立していた。このため、そこに大久保が薩摩出身者を送り込んで巻き返しを図ろうとしたと言われている。大久保が得能を推挙したことを薩摩藩庁に伝えた書簡(同年4月14日付)では、得能と
黒田清隆(
開拓使)は
政府における薩摩出身者の今後を左右する重要人物なので、薩摩への帰国を命じないように要請している。だが、大久保のこの戦略は失敗に終わり、大久保によって同時期に推挙された多くの薩摩出身者のうち大蔵省の要職に至ったのは得能と
松方正義のみであった。明治4年(
1870年)、民部省が大蔵省に合併されたことによる人事異動により出納頭(現在の主計局長)に任じられた。ところが翌明治5年(
1872年)5月、
会計簿記の洋式切替を主張する紙幣頭(現在の印刷局長)
渋沢栄一とその是非を巡って口論となり、得能が興奮のあまり渋沢に暴力を振るおうとしたことが問題となり、免官処分となる。だが、間もなく
司法省に招かれて
司法大丞などを歴任する。