1887年山陽鉄道(現在のJR
山陽本線の前身)創設時の社長となる。建設に当たっては、
瀬戸内海航路との競争を意識して、「線路の勾配を100分の1以内(10
パーミル以内)にせよ」との方針を打ち出し、「百分の一」「ワン・ハンドレッド」とあだ名された(長船友則『山陽鉄道物語』JTBキャンブックス、2008年)。しかし90年不況の影響で経営不振となり、工事がストップしたまま、1891年に中上川彦次郎は辞任する。1892年社長に就任した
松本重太郎は借入金と社債発行により資金調達の道をつけ、三原、広島間の敷設を1894年までに完成させた。